田舎の『何もない』は『何もないが在る』という話②

LINEで送る
Pocket

田舎の何もないについては、『人工物の多さ』で語ってる人が多いってことに気づいたんだけどさ。

前回の続きです。

田舎の『何もない』は『何もないが在る』という話①

最近気づいたんだよね、いやいや、これを読んでくださってる読者の方は『ヒラサワさん、遅すぎでしょ!!』って思ってると思うけどさ。
かたじけないかたじけない。

ま、ま、つまるところ田舎の人の『何もない』の『何も』っていうのは人工物のことを指してることが多いみたいなんだよね。
それは。

持たざる者は金を持ち。
持たない者は金がない。

金があるから人工物が様々あって、その中で魅力的な経験をして楽しめるし、それが楽しみ!って思ってる人が多いようで。
自然の中にない『異物』に若者が興味を惹くのは当然だと思うし、『湯水のようにお金を使って楽しむ』っていうのは僕らが経験したことのない『バブル』時代の楽しみ方だったんだろうなぁ。

うちのお義父さんですら、バブルの頃は、ピー・ピー・ピーって話をしてるくらいだからね。
あれ?文字に出来ないなぁ。おっかしいなぁ。

ま、ま、人工物がないなら、自然があるわけで、それって比例するよね?
人工物90、自然10が都会っていうなら、雫石は自然85、人工物15って感じかな。

そっか、物質的な話だったのか。
なんだ、物質的な話だったのか。

何もないがあるか〜。
ない場所にはさ、つまるところ、自然が詰まってたワケ、手つかずの。
それって『NULL』みたいなものなのかな?あるけどない、存在はあるけど、認められてないみたいな?

だとしたら、それらには、ずいぶんと僕らは、見えない形で恩恵を受けてるワケで。

あたりまえにある空気みたいに。
や、や、空気そのものなのだけど。
吸ったら入ってきて、吐いたら散って。

田舎はある意味こういう『安心』が詰まってる。
詰まってるというよりは包まれてる。

空気がそうなら、風もそうなんだろう、風の音、風の匂い。

空気にしろ、水にしろ。
当たり前だけど、『この当たり前がない限り』は、僕らは美味い山菜はもちろん、頬張る米だって野菜だって手に入らないわけなワケなんだよ。

川魚だってそうだろう。
誰だって、排水垂れ流しで育った魚なんか食べたくないだろうから。

言い方を変えれば何もないは、『見えない安心が詰まってる』ともいえたワケだけど。

なるほど、だったら見た目な話なら見えないのも納得出来た。
『普段は当たり前と意識しない無意識の中にある』っていうのなら。

考えてみたら、米一粒にもリミットいっぱい『何もない=田舎』が詰まってたんだな〜。

土地を離れて田舎を思い出したとき、おにぎり食べたいとか、冷やしたキュウリに味噌つけて食べたいとか。
考えてみたら、リミットいっぱい『何もない=田舎』が詰まってたんだな〜。

なら、何もなくてイイってことになったわけ、僕の中ではね。

物よりも、その中でね美味しい食べ物作ったり、五感を刺激する有機的な体験に囲まれてる方が僕のメンタルにもいいかな〜って。

そういう面では、こうして書いてるブログも『IT』で、『何もない』の一部なのかもね。
ちょっと似てるなって不思議な感じがある。

ということで、現状の考えを書き留めたところでまた進んで行きたいと思います。
これから1年もどうぞヨロシクお願いします!

田舎の『何もない』は『何もないが在る』という話①

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です